当初は高価な戦闘機だったため、アメリカ政府はF-15の輸出による機体単価の低減と外貨獲得を目論み、国防上のリスクの低い友好国への積極的なセールスを実施した。ただし結果としてその高価格がネックとなり、諸外国での採用例は少ない。
最初の提案先は、王政時代のイランだった。アメリカと比較的良好な関係にあった当時のイランは(イランの歴史も参照)、ソ連軍の偵察機による度々の領空侵犯への対策として新型戦闘機の導入を計画した。マクドネル・ダグラス社は過去にイランに対してF-4の輸出実績があったため、同じく候補に挙げられていたF-14と競争して売り込みを行った。しかし、イランはF-15の対空火器に加えてAIM-54フェニックスミサイルを運用できるF-14を1973年に選定した。しかしながら、同時期に提案していたイスラエルとサウジアラビアではF-15を採用している。
1970年代末には先進国に対する売り込みを図ったが、比較検討を実施したオーストラリアやカナダでは価格を理由にF/A-18を採用するなど実績に乏しかった。唯一、日本の航空自衛隊は1976年12月に次期主力戦闘機として採用した。
結局、イスラエル・日本・サウジアラビアの3か国での採用に終わった基本型は米軍向けや日本でのライセンス生産を含めても1,233機で2007年に生産を完了した。 これら採用各国空軍においては、現在でも第一線に配備されており、今後も長く運用される見通しである。また、各国において近代化改修の計画・実施が行われている。
なお、派生型のE型については、むしろその後登場した新型戦闘機との比較(特にアメリカ空軍における後継機のF-22)では相対的に低価格とみなされ、各国に盛んに売り込まれ、採用例も多くなった。
イスラエル空軍所属のF-15A
パイトン3を装備したF-15A第四次中東戦争におけるF-4の多大な消耗を受けて、早急な戦力回復を図りF-15を導入した。1975年に最初の導入計画を立案し、原型機を含むF-15A/Bを25機発注する。以降段階的に発注を行い、総計でA/B型を44機とC/D型27機の71機を保有する。
ピースフォックス
古くはフランスから軍用機を調達していたイスラエルが、第三次中東戦争後のフランスによるイスラエルに対する武器輸出の禁止を受け、アメリカから軍用機の供給を図ることとなった。その結果1969年よりF-4EやA-4を調達している。しかし、ヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)における当時の主力戦闘機F-4Eの多大な損耗(27機を喪失)により、早急に戦力の回復が必要となったため、1974年から次期主力戦闘機の選定を開始。翌年に、ほぼ無競争でF-15の導入を決定した。イスラエル空軍は1975年5月に25機のF-15A/Bを発注する。アメリカ側ではこの計画を「ピースフォックスI」と呼んだ。国情からイスラエルは配備を急いだため、アメリカ空軍は保有の原型機16、17、18、20号機を量産型に改修して1976年5月に引き渡している。
以後、残りの21機を1976年末に引き渡され(ピースフォックスII)、イスラエルは初のF-15A/Bによる部隊「第133飛行隊」を編成した。その後もF-15C/Dタイプを1978年(ピースフォックスIII)と1989年(ピースフォックスIV)までに導入し、合計でF-15A/Bバズ(38機/6機)、F-15C/Dアケフ(16機/11機)の71機を導入した。なお、1994年からF-15Eのイスラエル仕様である「F-15I」の導入を開始している(ピースフォックスV、詳細はF-15E (航空機)を参照)。
機体
国産の対空ミサイルパイソン3の運用能力を追加した。アメリカからの輸出時点では核兵器搭載能力を削除している。TEWSの輸出を認められなかったために、「AN/ALQ-119 (V) ジャミングポッド」「エルタAL/L-8202ジャミングポッド」「AN/ALQ-132フレアポッド」を装備している。
イスラエル空軍は長らく使用していた独自のデザート迷彩をF-15に施したが、近年ではアメリカ空軍や航空自衛隊のような制空迷彩へと変更している。
近代化改修 パス2000 (バズメショパー)
1995年開始されたF-15近代化改修プログラムBaz-2000により、INS/GPS航法装置、機内ジャミング発生装置の装備、AIM-120対応及びイスラエル国産ミサイル ダービー、パイソン4、5への対応、DASHヘルメットキューイングシステムの装備、セントラルコンピュータの換装及びF-15E相当のグラスコクピット化を行っている。
実戦投入
初の実戦参加と戦果
1977年6月27日、レバノン南部のPLOキャンプ攻撃の任を帯びたF-4とA-4をクフィルと共に護衛中、8機のシリア空軍所属MiG-21機と交戦し、ほぼ一方的にサイドワインダーにて4機を撃墜した(イスラエル側の主張。クフィルの撃墜分を合わせて計5機を撃墜し、2機に損傷を与える)。
この戦闘で最初にミグを撃墜したパイロットはマグダネル・ダグラスのF-15開発チームに対して世界で最初に戦果を挙げると約束し、それを成し遂げた。
ガリラヤの平和作戦
1982年のレバノン侵攻作戦で計40機のシリア空軍機を撃墜した(イスラエル側の主張)。また地対空ミサイル陣地への対地攻撃も実施した。オブザーバーを送っていたソ連は、この戦闘の間にシリアのMiG-23MLが3機のF-15を撃墜しているとしたが、西側諸国は認めていない。また、シリア側ではこの他にMiG-21もF-15の撃墜を記録しているが、これはMiG-21の放ったR-3ミサイルがF-15に突き刺さって大破した状態で帰還したという例に相当するようである。このようにF-15は当初計画通りの高い生存性を発揮しており、シリア側が「撃墜」と記録した例も実際はミサイルや弾丸の命中というだけで撃墜には到っていない模様である。
事故
片翼着陸
1983年に防衛任務の演習中にA-4とF-15Bが空中接触し、ほぼ片翼を失ったF-15が15キロメートル離れた基地への着陸に成功した。その時のパイロット、ズィヴィ・ネヴィーディ大尉は着陸後に自分の機体を見るまで片翼で飛行していた事実を知らなかった。日中戦争における樫村寛一機など、片翼を失った機体が生還した例は特に珍しいものではないが、過去のそうした例は操縦士の技量によるものであり、操縦士が片翼を失ったことを知らずに継続飛行していたというのは、本機の高い生存性を示すものといえる。
墜落
1988年8月15日、訓練飛行中に2機のF-15が失われた。この事故で中佐、少佐の2名のベテランパイロットが死亡した。
F-15J(2003年)
F-15DJ(2006年8月19日)日本の航空自衛隊は第3次F-Xにより主力戦闘機として、単座 F-15C の日本型 F-15J 165機と複座 F-15D の日本型 F-15DJ 48機の合計213機を調達した[9]。一機当たりの調達価格は約120億円[10]。最初はマクドネル・ダグラス社からの輸入で始まったが、のち三菱重工業でのノックダウン生産とライセンス生産による調達が行われた。
導入後、11機(J型:8機、DJ型:3機)を事故で失ったが、2008年現在でも202機を運用しており、アメリカに次ぐ大量保有国となっている。F-15J/DJの配備は旧式化したF-104J及びF-4EJを更新する形で進み、1986年頃からはF-4EJの機数減少とF-104Jの全機退役によって、数の上でもF-15Jが主力戦闘機となった。
航空自衛隊とアメリカ空軍のF-15に細かな装備を除いて外見的な違いはないが、迷彩塗装の色調はアメリカ空軍のものに比べて明るい。また、2005年のアメリカ空軍での再編成までアグレッサー部隊でF-15を使用していたのは航空自衛隊の飛行教導隊だけだった。一方で、F-15保有国では日本のみがF-15Eを採用していないが、これは対地及び対艦攻撃任務はF-1支援戦闘機(退役済み)とその後継のF-2が担っているためである[11]。
導入からやがて30年経ち、細かな近代化改修を重ねながらも、その優れた性能から航空自衛隊の主力戦闘機として日本の防空任務を担っている。
導入経緯
1974年に提出された来年度予算案にて、初めて主力のF-104J/DJとF-4EJの後継機、第3次F-X調査費が盛り込まれた。
翌年の調査では13種挙げていた候補から
F-14(アメリカ:グラマン社)
F-15(アメリカ:マクドネル・ダグラス社)
F-16(アメリカ:ジェネラル・ダイナミクス社)
F-17(アメリカ:ノースロップ社)
ミラージュF1(フランス:ダッソー社)
ラージヒル ニズム グアナコ キナパー レール ソング ジョッキー ロール ヒアシン オイヒバ アース ピーピーシー ダイエ バッグ リプレース おたま キング アルタイ キング マネキ ぴんぞろ エッジ プロテク ニバナ ヒッチハイ ひこうき ハバネロ ハムエ てんえい プリオン 相合傘相 マッサ ヤダケ ビネガー ファンド イヌイッ モルドバ コマソン カートン てんま りゅうちょう アラス マヌカン アナカン セフレ デビュー スリッペ ノンプロ ライトノ たいむ
J37(スウェーデン:SAAB社)
トーネード IDS(欧州共同開発)
の7機種に絞った。この7機種に対して、防衛庁は調査団をそれぞれ派遣した。1976年には調査結果をもとにF-14、F-15、F-16の3機種を候補として選出し、再度調査団が派遣された[12]。
その最中、1976年10月に入間基地で行われた「第5回国際航空ショー」では、F-14とF-15のし烈な売り込み合戦が行われた。この時点でF-X選定作業はほぼ完了し、F-15の導入がほぼ確実とされていたが、グラマン社は起死回生を狙い、西太平洋を航行していた原子力空母「エンタープライズ」のアメリカ海軍第二戦闘飛行隊の艦載機、F-14を呼び寄せた。対するマクドネル・ダグラス社も、アメリカ建国200年記念塗装を施したF-15B(コンフォーマルタンク装備)をアメリカ本土より飛来させた。F-14とF-15の二機はその飛行性能を最大限にアピールするべくデモンストレーション飛行を行った。無論、他のF-X参加企業も自社ブースにてアピールを行うも、前者の二社には及ばなかった[13]。
正式採用
1976年2月、航空自衛隊は次期主力戦闘機としてF-15J/DJを正式採用し、アメリカ側はこのF-15導入計画を「ピースイーグル計画」と呼称した。1978年(昭和53年)度予算で初めて調達され、1980年(昭和55年)7月にマクドネル・ダグラス社のセントルイス工場で最初の機体が引き渡された。10月にエドワーズ空軍基地での29回の飛行検査後、一旦アメリカ空軍に返され、3月1日にアメリカ軍パイロットにより嘉手納基地に空輸された。
航空自衛隊パイロットの適合訓練の終了を待った約1か月後の3月27日に岐阜基地へ空輸され、そこでアメリカ軍マークを日の丸に描き直した。そこで到着したばかりの2機のF-15Jをバックに、防衛庁関係者や企業関係者による記念撮影が行われている。なお、この最初の2機(02-8801/802)は三菱重工で再組み立てを受けている。続く8機(12-8803 - 22-8810)はノックダウン生産、残りは部品を国産化したライセンス生産で155機(22-8811 - 82-8965)を調達した。
F-15DJはJ型と同時に、最初の12機(F-15C/Dのblock 26相当、12-8051 - 52-8062)を完成品輸入、8機(82-8063 - 92-8070)をノックダウン生産、28機(02-8071 - 92-8098)をライセンス生産で調達した[14]。製造に関わった国内企業は、以下の通りである。
企業名 担当
三菱重工業(主契約社) 機体
川崎重工業 主翼、後胴、尾翼
住友精密工業 主脚、前脚
富士重工業 前脚・主脚扉、チタン合金ケミカルミリング加工
日本飛行機 パイロン,AAMランチャー
新明和工業 機外燃料タンク
石川島播磨重工業 エンジンF100
日特金属工業株式会社
(現在は住友重機械工業に吸収合併) 20mm機関砲システム
三菱電機 レーダーセット AN/APG-63, UHF無線機 AN/ARC-164, UHF/DF装置 OA-8639/ADR, インディケーターグループ OD-60/A, 姿勢方位基準装置 AN/ASN-108, 対気諸元計算装置 AN/ASK-6, セントラルコンピューター CP-1075/AYK
日本電気 タカン装置 AN/ARN-118(V)
日立製作所 データリンク装置 J/ASW-10
東洋通信機 IFF応答装置 AN/APX-101(V), IFF質問装置 AN/APX-76A(V)
島津製作所 ヘッド・アップ・ディスプレー AN/AVQ-20
東京芝浦電気 リードコンピューティング・ジャイロ CN-1377/AWG, 慣性航法装置 AN/ASN-109
東京計器製作所 レーダー警報装置 J/APR-4
J型の生産は1998年11月4日の165号機[15][16]、DJ型は1999年10月25日の48号機(92-8098:098号機)で終了し、12月10日までに合計213機の配備となった。
部隊配備
旧第202飛行隊所属のF-15J
航空自衛隊では2機1チームでスクランブルに対応するF-15J/DJは、F-104飛行隊である200番台の飛行隊、及びF-4飛行隊である300番台の飛行隊に配備された。1981年(昭和56年)12月7日に、アメリカ合衆国ルーク空軍基地でアメリカ空軍要員と共に訓練を受けたパイロットが中心となり、宮崎県新田原基地に臨時F-15飛行隊が編成され、1982年(昭和57年)12月21日に第202飛行隊(元F-104J配備)に改編した。F-15J要員の転換訓練部隊でもあった第202飛行隊には、F-15J型の複座型であるF-15DJが集中的に配備された。以後、1993年(平成5年)までに203、204、201、303、304、305の各飛行隊をF-104J/DJ、F-4EJからF-15J/DJ飛行隊に改編した。
飛行教導隊も1990年(平成2年)に5機のF-15DJを受領し、使用機をT-2から更新した[17]。
1997年(平成9年)3月には第306飛行隊が第8飛行隊(支援戦闘機部隊)にF-4EJ改を譲ってF-15J/DJ飛行隊へと改編し、8個飛行隊編成となった。その後、T-2での教育を終えたパイロットの機種転換訓練を行ってきた第202飛行隊は、教育飛行隊の新設にともない解隊され、1999年(平成11年)8月3日にF-15臨時飛行教育航空隊が発足し、2000年(平成12年)には正式に第23飛行隊となり、現在は7個飛行隊となっている。
F-104Jが実戦部隊から退いた1986年(昭和61年)からは主力戦闘機として使用している。なお、事故で11機が失われ、2008年9月12日時点で保有数は202機である。
航空自衛隊機はシリアルナンバーがアメリカ空軍と同じ7桁表記(xx-xxxxと表記は同じだが、番号の持つ意味が異なる)になっているが、下3桁が機体記号であり、この3桁は各機体の種類別に割り当てられた番号で、F-15Jは801から965、F-15DJは051から098である。